殉教公園

2016年10月29日[更新]

1週間前から大分市内の久保山でリノベーション工事に着手しましたので、県道21号大分臼杵線を頻繁に使うようになり、現場近くの葛木を通っていると目に入って来た広々とした公園に立ち寄ってみました。

別に教会がある訳でもないのに、キリスト教の十字架が目立っていたので「何だろう?」と思って近くで調べてみましたら、キリシタン殉教記念公園となってました。

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公園の奥まで歩いて行くと、このような大きなモニュメントがありました。

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近くで見るとキリシタンを尋問している様子が描かれてまして、解説を読むとここは徳川幕府のキリスト教禁令に背いたキリシタンが処罰された場所だったようです。

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大分は、戦国時代にキリシタン大名として有名な大友宗麟が治めていましたので、日本国内でも特にキリシタンが多い地域だったようで、場所としては今の葛木を中心とした東部地区がその中心だったそうです。

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その記載の中で、私が面白く思ったのは、天領も含めた色んな藩の領地が入り組んでいる事です。

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現代の私の感覚では「この辺りは全部、府内藩の領地だろう」と思っていたのですが、府内藩の領地は下郡だけで、幕府の天領を始めとして、臼杵藩・肥後藩(熊本)・岡藩(竹田)・延岡藩といった、多くの藩が領地を取り合っていたようなんです。

こういう状況になった理由は恐らく、この辺り一帯が米作や港湾としての環境条件に恵まれた場所だったからではないかと思われます。

大分は旧国名が豊前・豊後で、総称して『豊(とよ)の国』と呼ばれています。

主食であるコメの産地であると共に、海上貿易に恵まれた港が複数存在する場所だったからこそ、大友氏のような戦国大名が生まれたんでしょうが、そういう地域は文化も進む代わりに政治的な影響も受けやすくなってしまいます。その一つの側面がキリシタンの弾圧であり、多くの被害者を出してしまう悲劇に見舞われたのでしょう。

殉教公園とモニュメントを見ていると、そういった感慨を覚えます。豊の国には、他にも多くの史跡がありますので、機会を見ながら私なりの解釈も交えつつ、これからも情報アップさせて頂きます。

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