私達が教科書で学ぶ歴史は、どうしても勝者側が作った話しが多くなってしまうため、過去に生きていた人達が実際に経験した事を知る機会は、意外と少ないものです。大分県内を歩いていると、隠れた偉人の話しに出くわす事があります。私が鶴崎で仕事をさせて頂いている際に、幕末の鶴崎に「知来館」という塾を開いていた勤王家『毛利空桑(もうりくうそう)』という方がいた事を知り、資料館に残された資料から、色々と学ばせて頂きました。
鶴崎高校に隣接したエリアが塾跡地の様です。
当時、勝海舟や坂本龍馬も訪れていたようですので、もし時代の波に乗ったら、松下村塾のようになっていた事でしょう。(そうなるのが良かったかどうかは別の話しですが)今年に入って、勝海舟と坂本龍馬の銅像も建てられたようです。
私も深く知っている訳ではないので、毛利空桑について語る資格は無いのですが、こういう記念館に行くと、自分が今まで知らなかった色んな事実を知る事が出来ます。
私が最も関心を持ったのは、当時の地図を見て、色んな考察が出来た事です。「幕末の頃、いかに鶴崎が栄えていたのか」そして「なぜ鶴崎が肥後藩領だったのか」が分かります。下の写真が、江戸期の鶴崎の古地図です。鶴崎川に隣接して、大きな米蔵があった事が分かります。<画像をクリックすれば、拡大して見れます>
江戸時代は、物資の輸送を海上輸送に頼っていました。特にお米を大消費地へ輸送する際、陸上を荷車で押していくには無理があったため、海上輸送に頼るしかありませんでした。しかし遠浅な港が多かった日本では、沖まで小船で運び、そこで積み替えないといけなかったんです。その点、鶴崎の海は大野川の支流になる鶴崎川と乙津川の水深が深かったため、大船に積んだまま入港出来た訳です。古地図を良く見れば、米蔵の場所には、川から直接入り込めるようになっていた事が分かります。
そして興味深いのが、下の地図です。熊本から阿蘇を越えていけば一直線で鶴崎に辿り着きます。従って、参勤交代の際にも、熊本から鶴崎まで来て、ここから船で瀬戸内海を通って江戸へ向かったそうです。当時の鶴崎の宿も、さぞ繁栄した事でしょう。こうやって考えていくと、肥後藩主だった加藤清正がわざわざ鶴崎を飛び地にしてまで肥後藩領にした理由が良く分かります。
鶴崎はこのように、時代の必要性から地の利に恵まれていたため、商業都市として繁栄し経済的に豊かな地域となり、その経済力を背景として、毛利空桑のような偉人も生み出したんだと思います。日々の生活が食べるだけで精一杯だったら、勤王思想も語っていられなくなりますから。
近くのお寺には、加藤清正の銅像がありました。何故、鶴崎に加藤清正の像があるのか、疑問だったのですが、毛利空桑の資料館に行って、その謎が解けた気がします。
そして、鶴崎が府内の雰囲気と違っている事も、分かった気がします。地域を知るには、歴史と共に地形を学び、そこに考察を加える事が大切ですね。